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歴史的瞬間

3月26日


日本では、SMAPの分裂騒動よりも扱いが小さいようだけど(笑)、キリスト教のカトリックとロシ
ア正教の和解はけっこう大きいニュースだと思う。

背景には、プーチンのウクライナに対する思惑や、ローマ法王がシリア内戦に関してロシアの力を借りたいなど政治的な面もあるようだが、何といってもこの和解は1054年の相互破門以来、960年ぶりだというからすごい。

1054年といえば、まだビサンツ帝国だのセルジューク朝などといった時代だし、
十字軍の遠征前である。

日本だと、藤原頼通が平等院鳳凰堂を建てた頃だというから時間の重みを感じる。

もしかして、我々は歴史の転換点にいるのか・・?などとはしゃぎたくもなる(笑)

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和解する理由としては、「中東地域でのイスラム過激派によるキリスト教徒の迫害を阻止したい」
ということだが、キリスト教の将来的な危機感もあるらしい。

それは、世界的に見ても出生率の高いイスラム教徒の増加率が高く、特に中東からの難民を大量に受け入れている欧州はいずれイスラム圏になってしまうのではないか・・?という懸念である。

部外者から見れば「ユダヤもキリストもイスラムも元はアブラハムじゃないか。」などと乱暴な意見も言えるが(笑)、当事者としては、勿論そんなことは言っていられない。

さらに、人権主義という考え方が欧州に広まっており、これがキリスト教の教義に反することが多いらしい。
「尊厳死」だとか、「同性婚」だとかその他色々・・

イギリスやドイツなどでは、無神論というか無宗教化が進んでいるらしいということも考えると、法王や総主教がキリスト教の未来に不安を感じるのも納得ができる。

分裂してお互いを批判し合っている場合ではないと・・

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宗教よりも科学だというのは言いすぎかもしれないけど、宗教との関わり方も変わりつつあるのかもしれない。
昔のように厳粛にどっぷり浸かるのではなく、教義の中から哲学的に学んだりする方向にシフトしつつあるのかもしれない。

無宗教の自分が言うのもなんだけど、それでも宗教というのは無くならないと思う。

科学だけでは計れない謎だとか不思議なことは、世の中に存在し続けると思うからだ。



とは言え、日本人としてはSMAPの今後が気になるのも事実である(笑)

# by johniphoto | 2016-03-26 19:01  

ドイツもこいつも・・?

2月28日


ノルウェイの森」という小説をフランスとドイツに区分け出来るという論文を読んだことがある。
僕や直子が選択している第二外国語や、作中で読まれている小説などを細かく分類すると・・・・・

直子=フランス、僕=ドイツになるらしい。

なるほど、そうかもしれないと妙に納得。

確かに結果的には、直子=仏、僕=独りだからな。

やはり、研究者はたいしたもんだなと実感。

論文では、その二つに分けられるというところで終わっていたが、さらに、その論説を元に深追いを続ける。

「死は生の対極ではなく、その一部として存在している」という僕の哲学を考えてみる・・・

それを視覚的に表すと、飛び地のような形になると思う。

「僕はどこにいるのだ?」というラストシーンを合わせて考えると、僕は1987年当時のドイツ、東西に分断された
ドイツの暗喩であり、僕の哲学は、飛び地的である特殊な「西ベルリン」である。

そして、直子と僕の関係は、死の世界」へ引きずりこまれる直子を、僕が必死に生の世界へ引っ張り戻そうという、いわば綱引きのようにも見える。

これは、戦い=戦争なのだ。

だから、これは直子対僕の戦いの物語であり、それはアルザス・ロレーヌの争奪戦を中心とした、ずっと戦いつづけてきたフランスとドイツの戦いの歴史の暗喩であるという見方も出来る。

自分は、初めてこの本を読んだあと、村上春樹に興味を持ち、いろいろ研究していった。

小説だけでなく、エッセー、インタビュー、村上春樹についての論文等々。

この作家は、小説家として素晴らしいだけでなく、その前提としての「読み手」として素晴らしいということを実感した。
高校生のときに読書感想文を10通り書いて、それを友達に売り歩いたというのが初の原稿料らしいのだが(笑)、それを知った担任は「こんなに柔軟な考え方を持つ生徒がいるなんて」と驚きを隠せなかったという。
その頃から、大変な読書家だったそうである。

しかも、ただ読書量が多いというわけではなく、理解の深さ、洞察力、柔軟さなどが際立っていたようである。

村上氏は、海外文学を沢山読み続けてきたそうだが、例えばグレート・ギャツビーのどこがどんな風に自分を魅了したかというようなことを、小説やエッセイ集などでより具体的に、よりわかりやすく読者に説明してくれる。
勿論、他の作家の作品についても同様である。

その素晴らしい読書体験や人生経験などによって様々な視点からの観察、哲学などを小説という形で我々に提供してくれているということである。

小説を読むことの素晴らしさと重要性を、説得力のある自分の言葉で読者に教えてくれるのだ。

とにかく、自分が村上春樹を支持する理由は、そういったきちんと裏付けされた才能から、いつも何らかを学ばせてくれ、そして考えさせてくれる点である。


さらに、村上氏は、文体というものを非常に大切にしている。
多分、若い時にジャズ喫茶をやりながら大量のジャズを聴き、それが体の中に染み込んでいるんだろう。
(余談だが、タモリの笑っていいともはまさにJAZZであり、彼は他の人がソロを取っている間は絶対邪魔をしなかった。そのへんを分からん奴らが皆、自分がソロをとることばかり考え、番組は飽きられていった)

村上春樹の文体にはリズムがあり、色があり、空気感があるのはそのことと無関係ではないと思う。

なんといっても、デビュー作「風の歌を聴け」は、一度に日本語で書いたものをわざわざ英訳して、それを再び日本語訳するという手の込んだ作業の結果、あの文体が出来上がったのだという。

同じ内容でも、文章のリズムなどが違うと全然違う話になってしまうというようなことを、氏はどこかで書いていたと思う。

あの独特の文体、そしてそれに続く作品の多少変化の見られる文体、そしてノルウェイの森のリアリズム。(本人はそう思って書いたそうだが、異を唱える文壇の人などもいて、でリアリズムとは何か?ということが随分議論されたそうである)

さらに、最新作にいたるまで、読み比べればわかるが、文体が様々に変化し、それが小説の世界の幅を広くし、各作品の雰囲気、トーンがそれぞれ異なっている。

村上氏自身が、エッセーやインタビューなどで、文体というものが如何に大事かということを力説しているし、作品を読めばそれを納得する。

ノルウェイの森は、ストレートな文体でわかりやすく、非常に間口を広くしているという感じがする。
つまり、普段あまり本を読まない層をも取り込んでしまったということ。(発売当時の自分もその一人だった・・)

自分としては、作品中の死に直面する空気感、恐怖感などがものすごく伝わってきて、感動というよりは圧倒されてしまった。
物語の中にこれほど強く吸引されてしまったのは、このときが初めてだったのだ。

そして、その後村上春樹について研究した結果、氏の作品には必ず暗喩がいくつも存在し、作品間の関係性なども意図的に作られていることが徐々にわかってきた。

風の歌を聴けのアンチテーゼがノルウェイの森だとかね。

ノルウェイの森はリアリズム(的)な作品なので、裏読みをさせるような仕掛けだとか暗喩は一見殆ど無さそうだが、村上春樹という作家の傾向がわかってくると、そういったものが皆無な作品はありえないということで、色々調べていった末に、論文に出会い、この裏読みの可能性を考えた次第である。

この裏読みは、テレビの副音声的に捉えればいいのだと思う。

つまり、主音声では文章通りの物語が進行し、副音声に切り替えるとフランスとドイツの戦いの真っ只中・・・・という感じか・・?

とにかく、これはこれとして一つの読み方の可能性を発見しただけであって、この作品には他にも謎が多い。

登場人物のカタカナ表記、漢字表記の謎は、未だにわからない。

ノルウェイの森というタイトルについて。

ビートルズの原題は「ノーウェジアン・ウッド」。

ノルウェイ製の家具などと捉えればいいそうなのだが、単数形である。

自分としては、ここも非常に引っ掛かって、ちょっと考察してみた・・・

村上春樹の傾向を考えると、この邦題に違和感を感じないわけはないと思う。
それなのに、村上氏はこの邦題をあえて使用した・・・

それはなぜか・・?

この作品での人間関係は、3人のときに上手くいくということが示唆されている。
4人目が入るとギクシャクするし、2人だと成立しない。

これは、のちの作品でも明らかにされているが、村上春樹は3人という関係を強く意識し、意図的に作品に登場させている。
そして、3人のときにはそれなりに皆幸せを感じている。

これを踏まえて、作品のタイトルに注目すると・・・

「ノーウェジアン・ウッド=1人」を邦題にするとき、「ノルウェイの森(森という字)=3人」になるという
誤訳、勘違いが生まれた。

つまり、本来は1人=独りなのに、3人=楽しいという勘違いを、この翻訳ミスのようなタイトルの変化を逆手にとって、あえてそのまま使うことによって、表現しているのではないか・・?ということ。
(ちなみに3人でいるときがフェト=祭りとも考えられる)

これは、自分だけの勘ぐりであり、勘ぐりに過ぎないという可能性も高いが(笑)、しかしこういった解釈の可能性を示唆してくれることこそが大事なのであり、そこが村上春樹という作家の大きな魅力の一つであると思う。

性描写が割と多いので、この作品はポルノ小説などと揶揄されることもあるのだが、自分としては性描写の殆どは「儀式」であると捉えている。

つまり、僕と直子が交わることで、キズキの死を受け入れ、弔い、僕とレイコさんが交わることで、直子の死を受け入れ、弔うのである。

この作品は、非常に売れたため、流行りもの=大衆小説=軽いなどという受け止められ方もしているが、自分としては初めて読んだとき、その描写力や空気感などによって物語の中に強く引き込まれたし、読み返すことによって色々な謎や面白い部分も発見できるので、この作品をとても評価している。

そして、ノーベル賞を獲ろうが獲るまいが、村上春樹という作家の価値は変わらないと思うし、これからも大いに支持していくつもりである。
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# by johniphoto | 2016-02-28 01:43  

世界史の合間に

2月11日


世界史の合間に、ディケンズの「二都物語」を読んだ。

時代は、1770年代半ば~1790年代頃。
フランス革命前夜~フランス革命の時代。

貴族の圧政による庶民の貧困、退廃、絶望感、そしてそういった群衆の間に徐々に沸き上がってくる不満、そしてそれが組織化した形で爆発し、貴族政権をひっくりかえす・・・・・

作品の底流には常にそういった時代の、重くやるせない空気、そして恐怖感、緊張感が流れているので、それがストーリーの重み、深みに十分すぎるほど効いている。

日本でも頻繁に演劇で公演が行われる作品だそうで、言われてみれば確かに演劇的にはまる内容だと思った。

ただ、演劇では作者の、多少ユーモアがあり、皮肉的な情景描写、人物描写は本ほどには伝わらないだろうなと思う。
貧困にあえぐパリの街からは、本当に悪臭さえただよってきそうだし、棒きれのように細い痩せさらばえた人々、水で増量されたいかにもまずそうな酒、猫や犬でさえ食べないであろうまずそうなパンやその他の食品。
本来なら笑ってはいけない場面でも、作者の毒舌により思わずプッと吹き出してしまう箇所もあり、それが物語にメリハリを付け、いやそれ以上にかえってリアりティーさえ感じる。

時代背景について、感じたことを要約すれば、貴族の圧政時代も悪、暴徒化した人民による新政権時代も悪ということ。

人間は自分が欲望を満たすためであれば、そして自分が嫌悪感を感ずれば、人間の命なぞ本当に虫けら同然のように扱う。
市民の怒りが爆発したのはわかるが、貴族だったというだけで死刑にされる人間、、流れが堰止められるほど川に投げ込まれた死体、毎日50人もの死刑囚がギロチンにかけられ、首が飛ぶごとに歓声をあげる民衆。

聖女ギョティーヌに捧げられる葡萄酒が多ければ多いほど(ギロチン台と血のこと)、群衆は歓喜に涙し、踊りだすのだ。

もはや狂気の沙汰としか言い様がない。

けれど、これがこの時代の、しかもこの地の特殊な歴史的事実だとは言い切れない。

すなわち、人間の狂気などというものは、普段は理性で蓋をされているだけであって、必然性さえ生ずれば理性の蓋なんて簡単に押し破ってでてきてしまうであろうということである。

未だに、紛争というものは世界のあちこちで起こっているし、日本だってインターネットの一部では狂気が炸裂している。

しかし、自分としてはその狂気を完全には否定しないし、出来ないと思う。
狂気は強度の差こそあれ、人間誰しも必ず持っているものだと思うからだ。


そして、狂気とは悪い面ばかりではないと思う。

人間は定期的に酒を飲むことによって、理性の蓋をはずし、内に閉じ込められていた狂気を一時的jに解放する。
酒を飲んでいい気分になるのは、そういった点もあるからではないか・・・?

人々がロックを聴き、それに魅了されるのは、ある意味ではその中に存在する狂気の匂いを嗅ぎ堪能することだと思う。
但し、それが行き過ぎると、ミュージシャンがドラッグをやるなど悪い面も出てきたりはするが・・

個人的には、ビートルズでポールよりジョンの方がグッと胸にくる魅力を感じるのは、彼の中に狂気が見え隠れするからだと思う。

ドストエフスキーが、今の時代でもけっこう読まれているのは、彼の中には常に狂気が渦巻いており、さらに人間的に不完全なところもあるからだと思う。
そして、それは勿論作品の中の登場人物にも反映されている。
そういった部分が読者の親近感を呼び、小説の世界に引きずり込まれて行くのではないか・・・?

あしたのジョーでいえば、矢吹ジョーの狂気と力石徹のそれがぶつかり合うからこそ人々は圧倒されるわけだし、その陰に潜む悲しみ、優しさが胸にこたえるのである。、(狂気を無視して、感動を伝えようと試みた実写映画化などは陳腐の極みであるとさえいえる。)

狂気は、勿論ナチスのヒトラーにも言える。
彼の中の狂気が宗教的に信者を吸収し、狂信的に世界を覆ったとも言えるかも知れない。
まあ、これは悪い面であるが・・・

とにかく、狂気というのは我々の心の一部であり、それを見て見ぬ振りはできない。
それを追求し理解していくことは、猟奇的殺人などの問題を解決するための、一つの指針のようなものにはなるかもしれないと思う。


話は大きく逸れたが、フランス革命は現代でも、どこでも起こりうることだと思う。

小説のストーリーについては、長くなるので書かない。

文章通りに読めば、シドニー・カートンが主人公チャールズ・ダーニーの妻ルーシーを深く愛してしまったがゆえに、彼らのために最善をつくし、最後には死刑判決を言い渡されたチャールズ・ダー二ーの代わりに自ら処刑されてしまうのだが、これは自己犠牲的な愛、生死を超越した美なる心でもいったようなことなのかもしれないが、シドニー・カートンが可哀想すぎるとも思う。
さらに、ちょっと拡大解釈すれば、シドニー・カートンがチャールズ・ダー二ーとうりふたつという設定を考えれば、チャールズ・ダー二ーの負の部分を分身=シドニーカートンであると見なし、それを葬ったという捉え方も出来なくはない。

面白いのは、後でよく考えてみると、イギリス人万歳でフランス人を多少見下しているような印象もうけたこと。
主役である、フランス名サン・テブレモンド=チャールズ・ダー二ーのキャラクターが今一つ薄いこと、そしてルーシーは繊細でもあるが少々メンタル的にも弱すぎること、そしてルーシーの父ドクトルは立派で博識なのだが、18年間の獄中生活の後遺症で、頭がおかしくなることがしばしばあること。そして、これら三人は全てフランス人である。
三人とも全体的に受動的な印象が強い。
さらに、フランス革命により民衆が暴徒化するが、その中心となったフランス人リーダー、マダム・ドファルジュは無慈悲で最大の悪役として書かれてる。(確かに彼女が怒り狂うにはそれなりの原因もあるのだが)

対する、イギリス人は銀行屋のミスター・ロリー、弁護士のシドニー・カートン、ルーシーの付き人的役割のミス・ブロス。
こちらは、全体的に明るいか、能動的な印象。
実質的に仕事をするのはこの人達だし、チャールズがイギリスでスパイ行為を行って、裁判になり、無罪になる手助けをしたのもシドニー・カートンである。
そして、最後に彼は有罪となったチャールズの代わりに自らの命を差し出す・・・

ラストの直前、暴徒化したフランス群衆の代表マダム・ドファルジュとイギリス人女性ミス・ブロスの対決シーン。
女同士の戦いである。(この作品では殺気立つ女の怖さが強調されているように思う)
市民対貴族の戦いとも言えるが、お互い自分の国の言葉で喋り、一歩も引かない。
さらに、ミス・ブロスのプライドを見れば、これはイギリス対フランスの勝負であるとも言えなくない。
最後は、暴発した拳銃でマダム・ドファルジュは死に、ミス・ブロスは耳が聞こえなくなった。

主役であるフランス人のチャールズ・ダー二ーが全体的にはそれほど魅力的ではなく、受動的であり、感謝の気持ちなども足りないように感じるのに対し、イギリス人弁護士シドニー・カートンは無愛想で人生に対して諦観しているが、少なくとも、行動は立派だし、心が美しすぎる。

けれども、美談ではあるが、「主役さえ助かればいいのか・・?」という疑問を感じる。

それは、「太陽にほえろ!第100話 燃える男たち」とも共通する。
人質は助かったが、機動隊員が1名命を落とした。
警察幹部やジャーナリストたちが事件解決を喜ぶ中で、ただ一人重い表情をしていたボスは「私は、この作戦は大失敗だったと思います。」と一言・・・・

そういった、本当に心から喜べないやりきれなさや、主役のキャラクターの弱さ、不自然さなどを考え、原因を追求していった結果、「イギリスの美化」というものを感じ取ってしまったのである。

この作品の訳者あとがきでも、お世辞にもこの作品は褒められておらず、むしろディケンズを読むなら他の作品とでも言いたげな感じだった。

訳者も、この辺に不自然さを感じていたのではなかろうか・・・?

とは、いえ全体としては人物像もくっきりして感情移入が出来たし、幸福とは程遠い時代背景の中でのストーリー展開は、読み手の感情を揺さぶるのに十分すぎるほどだった。
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# by johniphoto | 2016-02-11 15:53  

最高!

2月1日

世界史って面白いわ!!
気がつくと3時間くらい経ってる(笑)。
一心不乱とはこういうことだな。

おっと、寝坊は出来ない。

ただ、問題なのは既に横道に逸れそうなこと(笑)。
マクニールの本は、ユーラシア大陸が終わりそうな章まで来てるのに、シュメール人とギルガメシュ叙事詩の本も注文してしまった。
今後も脱線が心配・・・(笑)

これまで小説しか読まなかったけど、その蓄積もたまには役に立つな(笑)
咀嚼力と想像力の点で・・
マクニールの本は、ある程度の読解力と想像力が要求されるからね。

昔だったら挫折してたかもしれないけど、今はぐいぐい引っ張られる!!

これとクロニックで、さらに突っ走ります!!

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# by johniphoto | 2016-02-01 05:50  

自律

1月10日

読み返したい本もけっこうあるし、新しく読んでみたい本もある。

しかし、最優先されるべき事は世界史である。
これは好奇心もあるが、「やっておくべき」という気持ちも強い。

クロニック世界全史は15000円もする分厚い本で1000ページを越える。
1994年暮れに購入し、世界史でも勉強してみようかと思った矢先に阪神大震災が起きた。

震災のせいにしてはいけない。(被災もしていないのに)
それに、あの頃の自分は震災がなくてもすぐ挫折していただろう(笑)

今回はこれを読み通す。
1年かけて・・・・

自由である自律。

やるべきことは、己で決める。

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# by johniphoto | 2016-01-10 01:38